昨日、夢を見ました。
洗脳する夢。
ぼんやりと、私は手術台の上に横になっていて、
そうすると漫画みたいに頭がカパっとひらいて、
水で脳の襞みたいなところ(って全部か)を洗うの。
そうすると水が重油みたいになって、
その前は水だったことも判断がつかないくらい黒くドロドロになって
床に落ちていく。
私はそんなグロテスクな光景を見て心底安心していて、
気持ちよくて、目を閉じる…。
そのまま目を覚ますと、
昨日のお酒が残っているのかちょっと頭痛がして、
あーあの気持ちよさはどこから来てどこへ行ってしまったのかと寂しくなる。
人はあるとき思いついて、美しくなるために、と、
毛穴を洗ってみたり、腸とか、内臓を洗ってみたりしてきたんだけど、
そのうち脳を洗いたいと思うのかもしれない。
NHKかなにかの番組で、毛穴を洗いすぎると、洗わずにはいられなくなって
自浄能力が落ちてしまうんだ、と白衣を着た先生が話していた。
人間も脳洗浄とかやり始めたら、きっと病みつきになって
洗わずにはいられなくなるんだろう。
そしたら私たちは美しく生きられるのだろうか?
2010年10月21日木曜日
ある人の死と、「運命」的なもの
「私の人生を変えたもの」として、人の死をあげる人はどのくらい居るのだろう。
人はいずれ死ぬ。例外なく、全ての人が死ぬ。
それほど当然のことなのに、それが残された人の人生をこれほどまでに変えるというのは、
改めて考えると不思議なことかもしれない。
憧れて止まない人が何人かいるのだけれど、その人たちの共通性がそこにあることを知って、驚きました。
人の、それも身近な人間の死。死という事実以上に受け入れがたい死。
…いろいろなものがひっくり返るのでしょう。自分が必死でしがみついてきたもの、彼が必死で求めてきたもの。
その先にあるのが、これなのですか、と。
そうして、何かしらに導かれることが、ある種の「運命」的なものとして存在するのかもしれない。
「運命」的なものは必ずしも、巷でそう思われているほど胸のときめくようなものではなく、
手足に絡み付いてもがくたびにさらに絡まり、そして寒い日には少し疼くような…
そういうものであることも実は多いのかもしれない。
でも、そういうものによって動かされているほうが、私たちにとってより魅力的なのかもしれない。
人はいずれ死ぬ。例外なく、全ての人が死ぬ。
それほど当然のことなのに、それが残された人の人生をこれほどまでに変えるというのは、
改めて考えると不思議なことかもしれない。
憧れて止まない人が何人かいるのだけれど、その人たちの共通性がそこにあることを知って、驚きました。
人の、それも身近な人間の死。死という事実以上に受け入れがたい死。
…いろいろなものがひっくり返るのでしょう。自分が必死でしがみついてきたもの、彼が必死で求めてきたもの。
その先にあるのが、これなのですか、と。
そうして、何かしらに導かれることが、ある種の「運命」的なものとして存在するのかもしれない。
「運命」的なものは必ずしも、巷でそう思われているほど胸のときめくようなものではなく、
手足に絡み付いてもがくたびにさらに絡まり、そして寒い日には少し疼くような…
そういうものであることも実は多いのかもしれない。
でも、そういうものによって動かされているほうが、私たちにとってより魅力的なのかもしれない。
2010年8月24日火曜日
28歳
あれは確か、卒論を書いていた頃に先輩(女性)が言ってた。
「女はね、28歳のときに転機を迎える人が多いのよ。
そんな統計は探しても無駄なことは知っているけど、
少なくとも私の周りでは、そういっている人が沢山居るんだもの。」
「転機」というのがプラスのことだけを指す言葉ではないことは、百も承知です。
でもそういうものが欲しくて、私はずっとそういうものが欲しくて。
暗いところから光を見る、そのときの快感を、人はなかなか忘れることが出来ないのだと思う。
本当は、暗いところに落ちていく不安な感じとか、底のほうの生き辛さとか、足に絡み付いてくる冷たいものとか、そういう「厄介なもの」と一緒に、いや、「厄介なもの」全てを受け入れた後で、やっと光はやってくるのに。
母曰く、「忘れる」という人間の生存に欠かせない能力をしっかりと行使して、
私は、暗いところでもう一度光を見たいと思っている私に気づく。
誕生日から早1ヶ月以上。
私の数え年28歳もこうして終わっていくのかな。
来年もそんなことを呟きながら、相変わらず「暗いところから光を見たい」とかいっているんでしょうか。
「女はね、28歳のときに転機を迎える人が多いのよ。
そんな統計は探しても無駄なことは知っているけど、
少なくとも私の周りでは、そういっている人が沢山居るんだもの。」
「転機」というのがプラスのことだけを指す言葉ではないことは、百も承知です。
でもそういうものが欲しくて、私はずっとそういうものが欲しくて。
暗いところから光を見る、そのときの快感を、人はなかなか忘れることが出来ないのだと思う。
本当は、暗いところに落ちていく不安な感じとか、底のほうの生き辛さとか、足に絡み付いてくる冷たいものとか、そういう「厄介なもの」と一緒に、いや、「厄介なもの」全てを受け入れた後で、やっと光はやってくるのに。
母曰く、「忘れる」という人間の生存に欠かせない能力をしっかりと行使して、
私は、暗いところでもう一度光を見たいと思っている私に気づく。
誕生日から早1ヶ月以上。
私の数え年28歳もこうして終わっていくのかな。
来年もそんなことを呟きながら、相変わらず「暗いところから光を見たい」とかいっているんでしょうか。
2010年8月1日日曜日
ごっこ遊び
「○○ごっこ」
という遊びは、ほとんどの人が経験するのだと思う。
お母さんごっこ。
お嫁さんごっこ。
お医者さんごっこ。
お花やさんごっこ。
幼い私はその人にはなれないのだけれど、
その人になりきって、
お料理してみたり、
お化粧してみたり、
聴診器を当ててみたり、
花束をつくってみたり…
私はごっこ遊び、結構好きでしたよ。
この前、先輩に私のやっていることは、
ごっこ遊びだと言われました。
最初は、彼が何を言いたいのか分からなかったけれど、多分、
私が幼いのだと批判したくて、
私が甘ったれていると批判したくて、
私が怠惰だと批判したかった
私は「その人になりきって、そのようなことをやってみている」だけだと批判したかった
いくら私は「そんなつもりなく」ても、
彼には「そのように見えた」んです。
そもそも実態はないものだから私が「そのつもりになればそう」かもしれないし、
先輩が「そう見えればそう」なんだと思う。
人はそれぞれ人生の文脈が違うんだ。
少なくとも、私の人生は、ある人にとっては「ごっこ遊び」に見えるのだと分かりました。
開きなおるわけではないけれど
私は、それも飲み込んで生きていくつもりですから。
ごっこ遊びだっていいじゃないですか。
それすら出来なくなる世界なんて
全然ワクワクしないし、想像力の欠片もないじゃないですか。
ミラーニューロン
ミラーニューロンというものがある。
自らがある行動をするときと、その行動を他の個体がしているのを見ているときと、
同じ脳の部分が活発になるらしい。
この人はミラーニューロンが活発だなと思う人がいる。
そう思う人が何人かいて、何故だろうと考えてみた。
彼ら彼女らの存在自体が、いろいろな意味で平均的ではないのだ。
人は周りと自分を見比べて2通りの苦しみ方をする。
一つは、人と同じことに対する苦悩。
もう一つは、人と違うことに対する苦悩。
おそらく、彼ら彼女らは、後者の苦悩を、普段少なからず持っている(のではないかと私は推測する)。
そうか。
彼ら彼女らにとって、日常でミラーニューロンを働かせることは、もしかしたらそういう苦悩を和らげる効果があるのかもしれない。
そういうところで、バランスをとっているのかも、知れない。
改めて、人間とは凄い生物だと思う。
本当だったとしても、どちらにしても、凄い生物だと思う。
2010年4月22日木曜日
堕落と焦り
社会人2年目になりました。
一昨日は企画書作業のために徹夜で、昨日は帰って家でお酒を飲んでいたらそのままソファーで寝ていました。でも今朝はすごく良い目覚めだった。…とか言ってるからソファーで寝る癖が直らないのだと思う。
堕落していく。
「辛いこと」が減っていくのは、外界との間に摩擦を生まなくなるからだ。
自分が薄っぺらく、手触りの無いものになっていくことだ。
それに対して「焦っている」。
適度な焦燥感は、時に原動力になりえる。
それすらなくしてしまったら本当に堕ちていくだけなのだと思う。
「不安を感じない人間は危険だ。
大事なセンサーが鈍っているということだから。
でもいつも不安な人間も同様に危険だ。
いつも不安だと、本当に不安を感じるべき状態に対して反応することができない」
だから「いつも焦っている」
のは、「いつも焦っていない」のと同じだ。
悠々と、眺めて歩く。
堕落していく自分も、悠々と、眺めて歩く。
私への助言とは、大事なときのためにセンサーをスタンバイしておきなさい、
という意味だったのかもしれない。
一昨日は企画書作業のために徹夜で、昨日は帰って家でお酒を飲んでいたらそのままソファーで寝ていました。でも今朝はすごく良い目覚めだった。…とか言ってるからソファーで寝る癖が直らないのだと思う。
堕落していく。
「辛いこと」が減っていくのは、外界との間に摩擦を生まなくなるからだ。
自分が薄っぺらく、手触りの無いものになっていくことだ。
それに対して「焦っている」。
適度な焦燥感は、時に原動力になりえる。
それすらなくしてしまったら本当に堕ちていくだけなのだと思う。
「不安を感じない人間は危険だ。
大事なセンサーが鈍っているということだから。
でもいつも不安な人間も同様に危険だ。
いつも不安だと、本当に不安を感じるべき状態に対して反応することができない」
だから「いつも焦っている」
のは、「いつも焦っていない」のと同じだ。
悠々と、眺めて歩く。
堕落していく自分も、悠々と、眺めて歩く。
私への助言とは、大事なときのためにセンサーをスタンバイしておきなさい、
という意味だったのかもしれない。
2010年3月8日月曜日
従順であることの評価
自分が誰かの管理下にある、ということは
その人に従順であることが評価軸の1つになるということらしい。
その組織なり仕組みなりの評価がある際に
「余計なこと」をして50点取る人間と
「余計なこと」をしないで50点取る人間では
後者のほうが評価される。
いわゆる「課外活動」をしていた私が「しょうもない論文」を書いたことと、
(例えば)従順に、大学が終わったらきちんと家に帰って10時に寝る私が
「しょうもない論文」を書いたことだと、後者のほうが評価される。
それが不思議で仕方なかった。
自分が「前者」として存在するときに、実は「後者」なんて存在しないのに、
振り返って「あー後者であることが評価されるんだ」とか、
「あー後者のほうが安全なんだ」と思ってしまうのはとても危険だ。
人が育つ過程で、そうインプットされるのはとても危険だ。
自分を管理している(らしい)人たちに従順であることそれ自体が、
その場の評価軸になんとなく加点されているらしいと。
でも、そもそも「管理する」とはそういうことで、彼らは別に意地悪をするつもりはなく、
「管理する」対象が負うリスクを、(本人たちがそのリスクを負う能力が無いとされているので)
管理する側がきちんとリスクヘッジをしてあげないといけない、という「使命がある」とされているからだ。
ここで「管理する」側が見落としがちなのは、
その「リスク」を、自分が見誤る可能性を計算に入れることだ。
「リスク」を考えるとき、基となるのはその人の知見とか経験だ。
でも「人の人生」とか、そういう大きいものについて考えるとき、
実は「親だから」とか「教師だから」とかいう理由で、そのリスクをきちんと見つけられるのだと
錯覚するのはとても危ないと思う。
「我が子のためのリスクヘッジ」が、「我が子の可能性摘み取り作業」にもなりえるのだ。
だからリスクについて考えるなと言いたいっているのではなく、
だからそういう風になる可能性も加味しながら、
「管理」したり「教育」したりすべきだと思う。
手前味噌だけど私の両親はそれを心得ていた。
私は中学校に行くのを2年くらいやめていたのだけれど、
そのとき両親は「娘を学校に戻すこと」が
「娘にとってのリスクヘッジ」なのか「娘の可能性摘み取り作業」なのか、
「私たち両親には、どちらなのかわからない」という視点で向き合い続けてくれた。
そういう態度は、周りに「それは親の怠惰だ」とか言われる。
周りには「私たちは学校に行かないということはこの子のリスクだと思っていません」という
(その人たちにとっては)理解できない考え方をしているようにも見えるし、
「私たち両親にはどちらかわからないので、考えるのを放棄します」
という風にも見えるからだ。
「私たち両親には、どちらが良いのかわかりません」が、
「私たちはこの子の可能性を信じ続けます」という態度こそ、
私をここまで生かしてくれたのだと思う。
だからこそ、
私はそれからの人生で幾度となく、最初に述べたような疑問を感じ続けることになる。
自分が、「従順であること」自体が見えない加点になっているということを
きちんと計算してその通りに動くという強かさを持たないことが、
今までとても苦しくて厄介だと思っていたけれど、
でもそういうものを持たなかったからこそ、私の、この人生があるのだと思う。
その人に従順であることが評価軸の1つになるということらしい。
その組織なり仕組みなりの評価がある際に
「余計なこと」をして50点取る人間と
「余計なこと」をしないで50点取る人間では
後者のほうが評価される。
いわゆる「課外活動」をしていた私が「しょうもない論文」を書いたことと、
(例えば)従順に、大学が終わったらきちんと家に帰って10時に寝る私が
「しょうもない論文」を書いたことだと、後者のほうが評価される。
それが不思議で仕方なかった。
自分が「前者」として存在するときに、実は「後者」なんて存在しないのに、
振り返って「あー後者であることが評価されるんだ」とか、
「あー後者のほうが安全なんだ」と思ってしまうのはとても危険だ。
人が育つ過程で、そうインプットされるのはとても危険だ。
自分を管理している(らしい)人たちに従順であることそれ自体が、
その場の評価軸になんとなく加点されているらしいと。
でも、そもそも「管理する」とはそういうことで、彼らは別に意地悪をするつもりはなく、
「管理する」対象が負うリスクを、(本人たちがそのリスクを負う能力が無いとされているので)
管理する側がきちんとリスクヘッジをしてあげないといけない、という「使命がある」とされているからだ。
ここで「管理する」側が見落としがちなのは、
その「リスク」を、自分が見誤る可能性を計算に入れることだ。
「リスク」を考えるとき、基となるのはその人の知見とか経験だ。
でも「人の人生」とか、そういう大きいものについて考えるとき、
実は「親だから」とか「教師だから」とかいう理由で、そのリスクをきちんと見つけられるのだと
錯覚するのはとても危ないと思う。
「我が子のためのリスクヘッジ」が、「我が子の可能性摘み取り作業」にもなりえるのだ。
だからリスクについて考えるなと言いたいっているのではなく、
だからそういう風になる可能性も加味しながら、
「管理」したり「教育」したりすべきだと思う。
手前味噌だけど私の両親はそれを心得ていた。
私は中学校に行くのを2年くらいやめていたのだけれど、
そのとき両親は「娘を学校に戻すこと」が
「娘にとってのリスクヘッジ」なのか「娘の可能性摘み取り作業」なのか、
「私たち両親には、どちらなのかわからない」という視点で向き合い続けてくれた。
そういう態度は、周りに「それは親の怠惰だ」とか言われる。
周りには「私たちは学校に行かないということはこの子のリスクだと思っていません」という
(その人たちにとっては)理解できない考え方をしているようにも見えるし、
「私たち両親にはどちらかわからないので、考えるのを放棄します」
という風にも見えるからだ。
「私たち両親には、どちらが良いのかわかりません」が、
「私たちはこの子の可能性を信じ続けます」という態度こそ、
私をここまで生かしてくれたのだと思う。
だからこそ、
私はそれからの人生で幾度となく、最初に述べたような疑問を感じ続けることになる。
自分が、「従順であること」自体が見えない加点になっているということを
きちんと計算してその通りに動くという強かさを持たないことが、
今までとても苦しくて厄介だと思っていたけれど、
でもそういうものを持たなかったからこそ、私の、この人生があるのだと思う。
登録:
投稿 (Atom)
