自分が誰かの管理下にある、ということは
その人に従順であることが評価軸の1つになるということらしい。
その組織なり仕組みなりの評価がある際に
「余計なこと」をして50点取る人間と
「余計なこと」をしないで50点取る人間では
後者のほうが評価される。
いわゆる「課外活動」をしていた私が「しょうもない論文」を書いたことと、
(例えば)従順に、大学が終わったらきちんと家に帰って10時に寝る私が
「しょうもない論文」を書いたことだと、後者のほうが評価される。
それが不思議で仕方なかった。
自分が「前者」として存在するときに、実は「後者」なんて存在しないのに、
振り返って「あー後者であることが評価されるんだ」とか、
「あー後者のほうが安全なんだ」と思ってしまうのはとても危険だ。
人が育つ過程で、そうインプットされるのはとても危険だ。
自分を管理している(らしい)人たちに従順であることそれ自体が、
その場の評価軸になんとなく加点されているらしいと。
でも、そもそも「管理する」とはそういうことで、彼らは別に意地悪をするつもりはなく、
「管理する」対象が負うリスクを、(本人たちがそのリスクを負う能力が無いとされているので)
管理する側がきちんとリスクヘッジをしてあげないといけない、という「使命がある」とされているからだ。
ここで「管理する」側が見落としがちなのは、
その「リスク」を、自分が見誤る可能性を計算に入れることだ。
「リスク」を考えるとき、基となるのはその人の知見とか経験だ。
でも「人の人生」とか、そういう大きいものについて考えるとき、
実は「親だから」とか「教師だから」とかいう理由で、そのリスクをきちんと見つけられるのだと
錯覚するのはとても危ないと思う。
「我が子のためのリスクヘッジ」が、「我が子の可能性摘み取り作業」にもなりえるのだ。
だからリスクについて考えるなと言いたいっているのではなく、
だからそういう風になる可能性も加味しながら、
「管理」したり「教育」したりすべきだと思う。
手前味噌だけど私の両親はそれを心得ていた。
私は中学校に行くのを2年くらいやめていたのだけれど、
そのとき両親は「娘を学校に戻すこと」が
「娘にとってのリスクヘッジ」なのか「娘の可能性摘み取り作業」なのか、
「私たち両親には、どちらなのかわからない」という視点で向き合い続けてくれた。
そういう態度は、周りに「それは親の怠惰だ」とか言われる。
周りには「私たちは学校に行かないということはこの子のリスクだと思っていません」という
(その人たちにとっては)理解できない考え方をしているようにも見えるし、
「私たち両親にはどちらかわからないので、考えるのを放棄します」
という風にも見えるからだ。
「私たち両親には、どちらが良いのかわかりません」が、
「私たちはこの子の可能性を信じ続けます」という態度こそ、
私をここまで生かしてくれたのだと思う。
だからこそ、
私はそれからの人生で幾度となく、最初に述べたような疑問を感じ続けることになる。
自分が、「従順であること」自体が見えない加点になっているということを
きちんと計算してその通りに動くという強かさを持たないことが、
今までとても苦しくて厄介だと思っていたけれど、
でもそういうものを持たなかったからこそ、私の、この人生があるのだと思う。
