2012年12月19日水曜日

マイノリティ

自分がマイノリティであることを、目に見える形で突きつけられる。
私の思っていた「みんな」が、いかに「みんな」ではないか。

以前、新しいネットサービスを始めた方とお話したとき、こんなことを仰っていた。

「FacebookやTwitterから得る情報の割合が高くなると、
その内容の幅みたいなものはどんどん狭くなっていく…
繋がっている、同じ志向の人の考えや行動のみが目に入ってくるようになる…。

それは時には新たな連帯をうんだり…
それに限らず私たちに計り知れない恩恵を与えてくれてきたけれども、

一方で、私たちはそれによって物理的な全体観、身体的な感覚みたいなものを失い得る。」

…その時は、何となく理解した気になっていたけれど、
それはそんな気がしていただけだったのだと。

…私は、このバーチャルな、ここちの良い世界から、
もっと外に出る必要があるのかも、しれない。

きっとそれはどちらか…出るか出ないか…の選択ではなくて、
今ならその両方を生きることができるんじゃないだろうか。

2012年11月14日水曜日

割りきりとは、魂の弱さである。

惑わされるのは、私がまだどこへでもいけると思っているからだ、と指摘を頂きました。
自分が、本当にもうこれしかできないと思っていたら、惑わされはしないと。

割りきりとは、魂の弱さである。

何が強さで何が弱さなのかとか、
じゃあ強いほうがよくて弱いのはダメなのかっていう話は置いておいて、

世の中には「答えを出す強さ」と
「答えが出ない問いを問い続ける強さ」が存在すると思ったのでした。

それはまた、
「答えを出さずにはいられない弱さ」と
「答えを出せない弱さ」ときっと表裏みたいなモノなのだけれども。

2012年9月11日火曜日

漂流

漂流することにおける希望は
いつか何処か流れ着くことであり
漂流することにおける恐怖は
何処にも流れ着くことなく一生を終えることである

漂流することにおける希望は
一生流れ続けることであり
恐怖は
何処かに流れ着いてしまうことである

どんなことでも、
表面的に同じことをしているように見えても、
それが手段なのか目的なのかで、
(あるいはもっと別の側面での違いで)
こんなに求めているものが違うということを
私たちは時に痛いほど思い知らされる

いや、実は言葉に振り回されているだけで
求めているものは割りと似た形をしているのかもしれない

2012年9月10日月曜日

懐炉

内臓がひっくり返るくらい嬉しい、出来事が、やってくることがある。
私たちは、それを胸元に近いところで大事に抱えていれば、
何年間かは暖かく生きられるのだということを、
実感と共に知っている。

だからこそ、そういう想い出や、それに類するものを、
大切に扱って、ずっと暖かくあるように、
冷たい手に触れさせないように、
自分がその暖かさを奪いすぎないように、
守って生きている。

どこにいても、
何に縛られても、
何を与えられても、
何を奪われても、
私たちの心は自由だ。

2012年9月3日月曜日

9月の祈り

人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。

小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。

「ベネチアの小泉今日子」~おおきなかぶ、むずかしいアボガド~

9月になるのを見計らったように、外はびっくりするくらい涼しくなり、
お風呂に入って本を読む、みたいな、幸せな時間が戻ってくる。
たくさん汗をかいて、涙を流すと、ガサガサしていた自分の内側がつるんとしてくる感じがする。
この季節も、世界が素敵でありますように。

2012年8月20日月曜日

残暑

いろいろなところで聞いた言葉の断片が、私の中である「意味」に向かって一つの文章のようになっていく。…そういうものって大体において私の「望み」を補助してくれるんだとばかり思ってきた。

「人は見たいものを見て、聞きたいことを聞く」…もちろん、そうではないこともあるんだということは、分かっていた…分かっているつもりだったけれど、いきなりそれが目の前に出てくると、私はどうすることも出来なくなってしまった。

どうすることも出来なくなったとき…それでも何か出来ることを探してそれをするか、それともそのままじっとして「何かを待つ」か…私は、何を待つというんだろう?

2012年7月28日土曜日

穴だらけの私


目の前に
特別な人が現れることはとても幸せなことだけれど、そのたびに、
私にはまた穴が増えるんだと思った。

特別な人って、自分の頃の中にその人のための場所がある、
みたいな感じなの。
その場所は大きかったり小さかったりして、
暖かく満たされり冷たくなったり、穴があいたりするんだけど、
どんなに大きな穴があいたりしても、
その穴をその他のもので満たすことはできないんだ。
穴は穴のまま存在し続けて、私は穴だらけになる。

穴だらけになることが怖いと思うこともあった。
そういう時の方が多かった。
どうせ残るなら小さな、浅い穴のほうが救い様があると。

でも、ある時に、その穴が私を広げて深めてくれるんだと思えた。
私は穴だらけなんだけど、でもその穴の分、大きく深くなれているんじゃないかと。

土のことを思い出した。
肥沃な、豊かな土って、ミミズとかモグラとかが行き来して土に穴や隙間が出来て、みっちりした感じじゃなくてふかふかしてるんだよね。
穴も隙間も無くみっちり詰まった土よりも、穴や隙間だらけで、でもその間に空気を含めるような土の上では、植物が良く育つのだと。

人間も同じような感じなのかも。
穴だらけで隙間だらけの人間のほうが、その間に空気を含むことが出来て、そこでは生き物がよく育つんじゃないかなって。

2012年5月6日日曜日

希望とか望み

希望とか望み、みたいなものは、いつも曖昧でぼうっとした光のように私の胸元にあり、それが「確かにそこに在る」ことは分かるのだけれど、どういうものなのかを言葉にするのはとても難しい。

2012年4月24日火曜日

横断歩道を渡る人たち

3月下旬に、湯浅さんにISLの社会イノベーター公志園にご一緒させていただいた。
そこで、登壇されている方々の話を聞いてから、ずっと考えていることがある。

それは、私たちは、どこで、何によって、誰によって、
明日はわが身だと感じる
自分はこの問題の「当事者」であると感じる
ようになるのだろうか、ということである。

それぞれの方が行おうとしていることの根元のあたりに、
この感覚を、いかに多くの人の中に呼び覚ますか、ということテーマが置いてある。

「明日はわが身」
「自分はこの問題の『当事者である』」

ことは、論理的にいっても間違いではない。
例えば障害をもつことも、例えば癌になることも、例えば自死遺族になることも、
いつ、私に起こっても何もおかしくはない。
たまたま、私が今日そうではなかったとして、明日そうならないとは誰にも言い切れない。
誰にも分からない。
そんな当たり前のことを前にして、でもみんなそれぞれに、その感覚を呼び覚ましてほしいと、
そのためにどうしたらいいのかと考えている。

…一方で、そんなことを考えていたらそれだけで一日終わってしまう。
明日、私が障碍をもつことも、癌になることも、家族が自殺しているのが見つかることも、
それぞれ同様に起こりうることではあるけれど、そればかり考えていたら私の一日は終わってしまう。

そうだとしたら?

これもよくある結論かもしれないけれども。
…そうだとしたら、私たちはもっと「明日はわが身」に会い関わるべきなのだと思う。

この世界は体よくフィルタリングされていて、そういう想像を許さない。
フィルタリングされた中で暮らすことはとても楽だ。
この世界はもっと多様なもので出来ていているのだと知ることはもちろん、気持ちの良いことばかりではないけれど、
本当に、「明日はわが身」がやってきたとき、それを知っているかどうかで、ずいぶん違うように思う。

そんなことを思いながら聞いている曲。
これも、そんな話をしているように思うのだけれど、どうでしょうか。

横断歩道を渡る人たち

目の前を横切ろうとするその老人の背中はひどく曲がっていて
歩く姿をじっと見ていると足が不自由であることがわかる
かばい続けてきた足のせいか それとも
思うように動かぬ現実にへし曲げられた心が
背中まで歪めているのだろうか?

横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

目の前を颯爽と歩くその女のスカートはひどく短くて
ついつい目が奪われてしまう 強い風でも吹かぬものかと
そんな視線に気が付いたら きっと彼女は僕を睨みつけてくるだろう
「自分の為にしてるだけ」だと
「誰かの気を引きたいわけじゃない」と

横断歩道を渡る人たち
僕はハンドルを握り締めて見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

イライラした母親はもの分かりの悪い息子の手を引っ張って
もう何個も持ってるでしょ!?と おもちゃ屋の前で声を上げている
欲しがっているのはおもちゃじゃなく愛情で
拒んでるのも「我慢」を教えるための愛情で
人目も気にせず泣いて怒って その親子は愛し合っているんだ

横断歩道を渡る人たち
僕はフロントガラス越しに見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

ギターケースを抱え歩くその少年は仲間と楽しげに話している
好きな音楽の話か それとも好きな女の子の話か?
そのギターで未来を変えるつもりかい?それならいつか仲間に入れてくれ
僕だって何もかもをもの分かりよく 年老いたくはないんだ

横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

2012年4月1日日曜日

風が吹いた、のよ。

ここ2、3日風が強くて、本当に飛ばされてしまいそうなくらい風が強くて、
でもそれが、春の徴なんだと思うと、嬉しくなる。
桜と、終わりと、始まりの季節。

以前、大学の先輩後輩のワークショップ会に参加したとき、
同じグループに学校をつくっているのよ、という女性がいた。
その前は国際機関で働いていらっしゃって、所謂誰もが羨むような経歴で、
でも今は、軽井沢に学校をつくっているの、と。
…きっかけとか、タイミングって何だったんですか?
…そうね、風が吹いた、のよ。
彼女は、風が吹いたのよ、と言った。

風が、吹いてる。
春の、強引なくらい力強く、でもふわっとした香りのする春の風。
私の背中を少し押して、何も無かったように吹き抜けていく風。
大丈夫、強く吹き付けても、桜はきっと奇麗に咲くから、と不思議なほど自信満々な風。