2012年4月24日火曜日

横断歩道を渡る人たち

3月下旬に、湯浅さんにISLの社会イノベーター公志園にご一緒させていただいた。
そこで、登壇されている方々の話を聞いてから、ずっと考えていることがある。

それは、私たちは、どこで、何によって、誰によって、
明日はわが身だと感じる
自分はこの問題の「当事者」であると感じる
ようになるのだろうか、ということである。

それぞれの方が行おうとしていることの根元のあたりに、
この感覚を、いかに多くの人の中に呼び覚ますか、ということテーマが置いてある。

「明日はわが身」
「自分はこの問題の『当事者である』」

ことは、論理的にいっても間違いではない。
例えば障害をもつことも、例えば癌になることも、例えば自死遺族になることも、
いつ、私に起こっても何もおかしくはない。
たまたま、私が今日そうではなかったとして、明日そうならないとは誰にも言い切れない。
誰にも分からない。
そんな当たり前のことを前にして、でもみんなそれぞれに、その感覚を呼び覚ましてほしいと、
そのためにどうしたらいいのかと考えている。

…一方で、そんなことを考えていたらそれだけで一日終わってしまう。
明日、私が障碍をもつことも、癌になることも、家族が自殺しているのが見つかることも、
それぞれ同様に起こりうることではあるけれど、そればかり考えていたら私の一日は終わってしまう。

そうだとしたら?

これもよくある結論かもしれないけれども。
…そうだとしたら、私たちはもっと「明日はわが身」に会い関わるべきなのだと思う。

この世界は体よくフィルタリングされていて、そういう想像を許さない。
フィルタリングされた中で暮らすことはとても楽だ。
この世界はもっと多様なもので出来ていているのだと知ることはもちろん、気持ちの良いことばかりではないけれど、
本当に、「明日はわが身」がやってきたとき、それを知っているかどうかで、ずいぶん違うように思う。

そんなことを思いながら聞いている曲。
これも、そんな話をしているように思うのだけれど、どうでしょうか。

横断歩道を渡る人たち

目の前を横切ろうとするその老人の背中はひどく曲がっていて
歩く姿をじっと見ていると足が不自由であることがわかる
かばい続けてきた足のせいか それとも
思うように動かぬ現実にへし曲げられた心が
背中まで歪めているのだろうか?

横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

目の前を颯爽と歩くその女のスカートはひどく短くて
ついつい目が奪われてしまう 強い風でも吹かぬものかと
そんな視線に気が付いたら きっと彼女は僕を睨みつけてくるだろう
「自分の為にしてるだけ」だと
「誰かの気を引きたいわけじゃない」と

横断歩道を渡る人たち
僕はハンドルを握り締めて見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

イライラした母親はもの分かりの悪い息子の手を引っ張って
もう何個も持ってるでしょ!?と おもちゃ屋の前で声を上げている
欲しがっているのはおもちゃじゃなく愛情で
拒んでるのも「我慢」を教えるための愛情で
人目も気にせず泣いて怒って その親子は愛し合っているんだ

横断歩道を渡る人たち
僕はフロントガラス越しに見ている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

ギターケースを抱え歩くその少年は仲間と楽しげに話している
好きな音楽の話か それとも好きな女の子の話か?
そのギターで未来を変えるつもりかい?それならいつか仲間に入れてくれ
僕だって何もかもをもの分かりよく 年老いたくはないんだ

横断歩道を渡る人たち
僕は信号が変わるのを待っている
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく
昨日の僕が 明日の僕が
今 目の前を通り過ぎていく

2012年4月1日日曜日

風が吹いた、のよ。

ここ2、3日風が強くて、本当に飛ばされてしまいそうなくらい風が強くて、
でもそれが、春の徴なんだと思うと、嬉しくなる。
桜と、終わりと、始まりの季節。

以前、大学の先輩後輩のワークショップ会に参加したとき、
同じグループに学校をつくっているのよ、という女性がいた。
その前は国際機関で働いていらっしゃって、所謂誰もが羨むような経歴で、
でも今は、軽井沢に学校をつくっているの、と。
…きっかけとか、タイミングって何だったんですか?
…そうね、風が吹いた、のよ。
彼女は、風が吹いたのよ、と言った。

風が、吹いてる。
春の、強引なくらい力強く、でもふわっとした香りのする春の風。
私の背中を少し押して、何も無かったように吹き抜けていく風。
大丈夫、強く吹き付けても、桜はきっと奇麗に咲くから、と不思議なほど自信満々な風。