2012年9月11日火曜日

漂流

漂流することにおける希望は
いつか何処か流れ着くことであり
漂流することにおける恐怖は
何処にも流れ着くことなく一生を終えることである

漂流することにおける希望は
一生流れ続けることであり
恐怖は
何処かに流れ着いてしまうことである

どんなことでも、
表面的に同じことをしているように見えても、
それが手段なのか目的なのかで、
(あるいはもっと別の側面での違いで)
こんなに求めているものが違うということを
私たちは時に痛いほど思い知らされる

いや、実は言葉に振り回されているだけで
求めているものは割りと似た形をしているのかもしれない

2012年9月10日月曜日

懐炉

内臓がひっくり返るくらい嬉しい、出来事が、やってくることがある。
私たちは、それを胸元に近いところで大事に抱えていれば、
何年間かは暖かく生きられるのだということを、
実感と共に知っている。

だからこそ、そういう想い出や、それに類するものを、
大切に扱って、ずっと暖かくあるように、
冷たい手に触れさせないように、
自分がその暖かさを奪いすぎないように、
守って生きている。

どこにいても、
何に縛られても、
何を与えられても、
何を奪われても、
私たちの心は自由だ。

2012年9月3日月曜日

9月の祈り

人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。

小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。

「ベネチアの小泉今日子」~おおきなかぶ、むずかしいアボガド~

9月になるのを見計らったように、外はびっくりするくらい涼しくなり、
お風呂に入って本を読む、みたいな、幸せな時間が戻ってくる。
たくさん汗をかいて、涙を流すと、ガサガサしていた自分の内側がつるんとしてくる感じがする。
この季節も、世界が素敵でありますように。