2013年1月25日金曜日

記憶

私たちの記憶が、現実を物理的に切り取るようなかたちで
そのまま何処かに残るようになったとき
私たちはそれを「記憶」と呼び続けるのでしょうか

記憶は、
私たちが思っている以上に恣意的にできていて
この不条理で残酷な社会と自分の間に膜のように存在し
私たちの一番脆い部分を守ってくれている

記憶は、
私たちが思っている以上に恣意的にできていて
この温かく柔らかい社会と自分の間を満たす液体のように存在し
私たちが一番必要な時に背中を押してくれる

私たちが「記憶」と呼ぶのは、
そういうもののことだと思う

2013年1月15日火曜日

希望も絶望も、個人的なものではない

個人における希望や絶望は、一見個別に存在するものであるけれど
それは「個人的なものではない」。

それは世界平和とか核戦争だとか、
そういうものを「個人における希望や絶望」とする、というのとはまた別の話として。

私が本や映画からそういうメッセージを読み出だすのは、
私の願いや祈りが、そうさせているのだと思う。
もしくはそれはもっと多くの人が共有している「事実」なのかもしれない。
みんな、そう口に出さないだけで。

「9月の祈り」で同じ話をしている文章を引用していました。

人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。

小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。

「ベネチアの小泉今日子」~おおきなかぶ、むずかしいアボガド~

…みんな、そう口に出さないだけで。

 

2013年1月8日火曜日

白濁

前に進んでいたと思っていたのに、気づいたら同じ場所でぐるぐる回っている…
日々退化していく自分にため息をついて顔を上げたら、知らないところまで来てた…

そんなのはよくある話で、足をとめて振り返らないと、…あるいは振り返ったとしても、
自分がどこまで来たのかも、どこまで戻ったのかも、どこにいるのかも…わからないものだ。

やっと降りてきた言葉を書き留める。

明日を迎えるのが怖くて死にたくなることと、
幸せすぎてもう明日なんて来なくていいわ、
と思うことは、一見全く違うのだけど、

実は紙一重…それもとってもぺらぺらと薄い紙一重…なのだと、改めて感じる。

…そう気づいて、やっと私はバランスをとれるようになる。

嗚咽をあげながら、ペンを強く握る。
筆跡が変わり、それまでより大きめの、どしっとした文字が目の前に現れる。

一通り、そういう儀式を終えると、心地よい疲れと眠りがやってくる。

そうして迎える朝、意識は白濁していて、鏡に映る酷い顔に幻滅する…でもこれが私なのだと。
白濁した脳と酷い顔に、冷たい水を浴びる…これが、生きている、という感覚なのだ。