2013年1月15日火曜日

希望も絶望も、個人的なものではない

個人における希望や絶望は、一見個別に存在するものであるけれど
それは「個人的なものではない」。

それは世界平和とか核戦争だとか、
そういうものを「個人における希望や絶望」とする、というのとはまた別の話として。

私が本や映画からそういうメッセージを読み出だすのは、
私の願いや祈りが、そうさせているのだと思う。
もしくはそれはもっと多くの人が共有している「事実」なのかもしれない。
みんな、そう口に出さないだけで。

「9月の祈り」で同じ話をしている文章を引用していました。

人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。

小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、同時にもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだということを、それらは教えてくれる。

「ベネチアの小泉今日子」~おおきなかぶ、むずかしいアボガド~

…みんな、そう口に出さないだけで。

 

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