2013年11月7日木曜日

「生き残ってよかった」というために生き残ったのではない

生きる意味を教えてください

この本を手にしたのは2008年。
見ると2008年4月に発行された第二版のもの。

「みんな最期は死んじゃうのに、どうして生きているのかなあ」
という疑問を手に様々な方と対話している。

私にとって「しっくりくる話」がたくさん含まれていた。
友人に勧め、少し押しつけがましく貸してあげたりした。

…たまたま、その後その友人と会う機会が減り、
4年間ほど私の手元から離れていたこの本を再び手にしたのは
今年の春くらいだったと思う。

私はこの本を返してほしいと彼女に何度も連絡をした。
人に本を貸す時に、「もう帰ってこないと思え」といったのは誰だったか
これまで、そうして手放した本も1冊や2冊でない。

ただ、この本には帰ってきてほしかったのだ。
内田樹さんとの対談部分を読み返す。


自分だけが生き残ってしまった。

最大の困惑は、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかわからないということです。
理由があれば納得もできる。
けれども何の理由もなく、偶然生き残ってしまった。
では、この先、どうやって生き延びたことを意味づけるのか。
生き残った人間が自分が生き延びたことの理由を事後的に構築しなければならないとしたら、
その人間にできる仕事は一つしかない。
それは死んだ人たちが生きていたら成し遂げたであろうことを
自分自身のなすべき責務のうちに含めるということです。
自分が他者のし残したしごとを自らの責務として引き受けなければ
自分が生き残った意味はないだろう、
そういうふうにレヴィナスは考えたのだと思います。

他者のために、いない人の代わりに何かをしなければいけない。
いくらやっても取り返しがつかないのだけれどもやらないではいられない。
抱えているのはそういう「終わる仕事」じゃないんです。
既に死んでしまった人たちの美代わりに何かをするということなんですから、
その仕事に「終わり」は来ない。永遠に終わらない。
だって死んだ人が何をしようとしていたのかはレヴィナスにだってわからないからです。
死者については「何かをし残した」ということだけがわかっていて
「何をし残したのか」はわからない。
だから、死者のし残した仕事を引き受けるというのは
成就することのできない仕事なのです。
けれども、その「終わらない仕事」を引き受けない限り、
自分が生き残った意味がわからない、生き残った意味を構築できない。

彼と僕との生死を分かったその時点には、僕が生き残った意味はない。
生き残ったことの意味は、生き残った人間が、それから後、構築していかなければならない。
死んだ人の代わりになるのはできません。
死んだ人間が何を望んでいたのか、生きていたら何をなしとげたか。
生き残った人間には決していうことができないから。
だから、「これこそが彼らがしたかったことだ」と言い切ることのできる機会は、
原理的には永遠にやってこない。
でも、わからないから、もういいやということになったら、
自分が生き残ったことの意味を自分自身に納得させることができない。

「選ばれた」という感覚はどこかにあって当然なんです。
でも、それを「特権」だと考えると、自己嫌悪に陥ってしまう。
「特権」ではなくより多くの「義務」を負うために選ばれたと言い換える以外に
自己嫌悪から逃れる道はないのです。
「生き残ってよかった」というために生き残ったのではないと。
矛盾している…それはしょうがないですよ。そういう構造なんだから。
救いはないです。
救いはないけれども、どうして「救いはない」のかということの条理は明らかになる。

…生きている人間は、全員誰だって何らかのかたちで人を死なせているわけですから。


この本を再び手にとることに、意味があったのだと思う
例え「救いがない」としても、生きていきたいと思いながら生きるために