2014年7月30日水曜日

「生きるとは、自分の物語をつくること」

お休みをもらったら、たくさん本を読もうと思っていた。

実際は、一冊の本をなかなか読み進められなくて、旅行先に持って行った本もそのまま持って帰ってきてしまったり、ゆっくりしようとカフェに入ってもそのままぼぉっとしてしまったり。

そんな中で、とても素敵な本に出会った。
この本は、珍しく流れるように読んだ。

「生きるとは、自分の物語をつくること」
小川洋子さんと河合隼雄さんとの対談。

小川さんは「なぜ自分は小説を(物語を)書くのか」について、考え続けてきたと言います。


…自分のために書いているのか。
それは直感的に違う気がしていました。
こんなちっぽけな自分の中にある何かを吐き出すためだけに書いているのだとしたら、
きっとすぐに行き詰るだろうという予感もありました。
(中略)

いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、
私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。
「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても、無意味なのである。
その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。
死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、
死の存在と折り合いをつけられる。
物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結び付け、
自分を一つに統合できる。

表層的な部分は理性によって強化できるが、
内面の深いところにある混沌は論理的な言語では表現できない。
それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、
さらに他人ともつながっていく、そのために必要なのが物語である。
物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。
生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。

ああ、そうか。
自分は作家だから小説を書いているのではない。
誰もが生きながら物語を作っているのだとしたら、
私は人間であるがゆえに小説を書いているのであって、
「なぜ書くのか」と問われるのは「なぜ生きるのか」と問われるに等しい。
まさにその問いこそが表層の鎧の奥に沈む混沌であり、
それを現実的な道筋で説明できないのも当然なのだ。
説明できないからこそ、自分は小説を書いている…。
(中略)

誰かの心を支えるために必要なその物語が、
間違いなくこの世に存在していることを証明するため、
一字一字丁寧に書き留めてゆく。
それが、私の書く小説だ…と。

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生きるとは、自分の物語をつくること
物語が、誰かが生きるのを支えることができる

寝る前に、子どもに物語を聞かせるのは、
物語のつくりかたについて…それを通して、生きることについて…
伝えるためだと聞きました。

小さい頃、母がたくさん読み聞かせをしてくれたことを思い出して、
今はそれに感謝するばかりです。

2014年7月17日木曜日

31歳の誕生日に思うこと①

7月12日、31歳の誕生日がやってきた。

時間ができたら、私は自分の中にある「書くべきこと」を書こうと思っていた。
時間ができたら。
実際その「時間」を手にしてみて、私は気づく。
私の中には「書くべきこと」なんて無くて、
そんなものがあるなんて幻想だったということに。

少し前なら、それについて
「自分なんてからっぽだわ」って、
がっかりしたり、落ち込んだりしたのだと思うのだけど、
今は、なんだかそれも仕方ないか、とため息を少しつくだけで
そのまま、居られるようになってる。

ただ、これから、「からっぽ」な私を携えてずっと生きなければならないのかと
考えると、それはそんなに魅力的な話ではなく、
いつまでも「そのまま、居られる」わけでもないだろうと思う。

私の「からっぽ」な部分を、今は別のものが
満たしてくれているのだ。
「そのまま、居られる」のは、そのおかげなんだ、と。

自分に
「書くべきこと」なんてなくても、
底抜けに「からっぽ」であっても、
「そのまま、居られる」ようにしてくれている、
大切な大切なものに感謝して。